流転する自己 自己の現在地

今年の夏も乗りきれましたか、各位

私は、なんとか耐えきったと思うけど、スリップダメージは入ったかも というか夏が終わっても人生は終わらないので、長期戦を覚悟しないといけないか

 

それはさておき

最近はというと、インターン行ったりやらバイト辞めたりやら祖父の病態やらでいろいろ考えることが多い時期だった。ここ1,2か月はなんか気持ちが忙しかったように思う。すごいスピードで流れる時間に縋る思いだった。その間、ずっと自己について考えていた。自分は将来何がやりたいのか~みたいなところから始まり、自分と他人の差異であったりアイデンティティのことを考えていた。やっと煮詰まってきたと思ったらアクが出てきたので、はてブロにまとめて、思考を形に起こすことで整理したい。

 

 

よく承認欲の話がツイッターではされるが。

承認欲とはまあ言ってしまえば自分が自分であることを認めてもらうことだから、自分が存在しているんだ!ということを実感できる瞬間があればいいのだ。それって、他人からじゃなくて自分で認めてしまうこともできるのではないか。自己の中で欲が完結できるのではと気づいた。 自分の大事にしている考えを拾ってあげて、金庫に入れて逃げないようにする。自分の価値観、美学を保護してあげて、自分を認めてあげるのだ。やり方が2つあると思っていて、一番やりやすい方法としては、自分が実際に好きだと感じているコンテンツを応援したり公言することだと思う。 例えばアイドルとかアニメとかを好きだったとして、その好きって気持ちを大事にしてあげる。 好きと思う対象は、自分自身の投影でもある。自分と対象との価値観が合致したから好きになる。また、自分の中に認めたい、自分に有ってほしい要素を含むコト、モノである可能性が高い。それを大事にすることは、自分自身を大切にしてやることと同義なのだ。内に秘めておいても外に出してもどちらでもいいけど、その好きって気持ちを、誰から何言われようと大事にしたい。

 

もう一つ、価値観を保護する方法がある。自分の価値観がなんなのかを愚直に探し出して、守るのだ。まず、自分の価値基準が何を由来に定められているのかを見出す。引き出しのノブは好きなコンテンツとかからでもいいし、普段の行動パターンからでいける。おそらく。

自分自身がどんな人間かを考えても、自分の姿はこれ!っていうのはなかなか見つけられない。その中で価値観を探すのってかなり難しい。私に限らず人間って、ありていに言うと調子がいいときと悪いときみたいなものがあって、気分の数値みたいなものが波打っているように思う。値が高いときも低いときも自分だからすべて認めてあげるべきだ。少なくとも自分自身の中では。どの姿も己だから、その波打ってる自分の平均をとってあげたい。どの自分であっても大事にしているような核となる基準があるはず。無意識に目にとまる人やモノがあるはずなのだ。それは空かもしれないし、食事かもしれないし、道行く人の特徴かもしれない。とにかくそこから、自分が真に求めてしまう事象を媒介して価値基準を洗い出さないといけないのだ。

 

ちなみに、私自身が一番愛している事象、ないしは自分の性質としてしっくりくるのは「静かな狂い」みたいなものだ。そういう状態が好きだ。 当人にとって安心感があり、整った土壌から、「怒り」と錯覚するほどの強い力をもった発展をする瞬間が好き。 穏やかなゆるし、静止したような風景、諦めから生まれる秘かな情熱、分散、絶え間なく続くもの全般、時間、空間、とかが好き。 物質的な「状態」は、ある種ネガティブともいえる程に波風がなく平行線である。その裏でゆっくりと、周りを覆い潰すようなポジティブな昇華が「事実」として行われていくのが好きだ。

 

ツイッターでたまに概念とか空(そら)になりたいって呟いてるんだけどそれも同根の話。実態は音もなく静かでただそこに居るだけなのだが、一定のリズムで徐々に姿を変える。同じことー空という事象の変貌―を毎日繰り返すことに魅力を感じる。一つの個の中に様々な顔を見せるのが良い。自分や他者に求める人物像が空と似ているので空になりたいと本当に思ってる。個の中で変化を繰り返すものが本当に好きだ。陽が上って沈むこととか、生物の睡眠のリズムとか、人間の気持ちの強度とか。別にそれは一定でなくても構わない。変容する様が見たい。姿形、パッケージはそのままに、内部の値が変動し続けるのが一番美しいから。

こういった概念を包括する(と思っている)「波」というモチーフはかなり好きだ。

 

回りくどくなったが、波打つ自分自身の思考の中心に「自分なりの価値基準」を据えて、人生を流転させていくのが一番自分を守れる。おそらく私は、好きな価値であるところの「静かな狂い」みたいなものを自分の中心に据えて生きてくのだと思う。

ビジュアル的に言うと、自分の中にスクラップブックを作ることや音MADを作るようなことだ。変わりゆく自分自身をとらえて写真みたく映し出す。それらををバランスよく並べることが必要だし、いわゆるアイデンティティの形成、といえる。 自分が好きなものたちをキレイにバランスよく並べること。思考の優先順位に沿って整列させる。見ていて心地いいように、視線が安定するように、かつ当人の意思が反映されるように形づくる。

自身の中にあふれまくった思考を整理して、値が変動し続ける中で任意の自分の瞬間をとらえる。数ある自分をつなぎまくって一つにする。作品にする。そうして初めて作品として、「これは自分だな」と(目には見えないが)観測できるようになる。そこから、作品としての文脈―自身が大事としている価値基準―を考察していき、自分の中で反芻して、大事にしていく。また、ここにうつしだされた、概念の集合体のことを、俗に言う「個性」と呼ぶことも可能であろう。

もちろん、いろんな自分がある中で、それらのなかから解釈にいれたい自分のみを選ぶことだって可能だ。見られたい自分、そうであってほしい自分とか。選択した断片的な自分を、自分として表現することもアリだと思う。「自己表現」って言葉はそういうことだろうし、自分のすべてを他人に見せる必要はない。それこそ、「大事にする」ということが、他人に見せたくない、という意味になることだってあるだろうし。

こうでありたい!と思う自分を捕まえて、うまく並べて、具現化する。それを、自分の中で大事にできればいいんじゃないかなぁ。

人は、いろんな状態の自分や、他者から影響された自分とか、たくさんの要素の集合でできている。純粋な自分一人から生まれる自分というものは存在しない。けれども、その人たらしめるモノがある。この人はこういう人だなと思わせる何かがある。 おそらく、人は生きているだけで表象を伴っており、作品を作った製作者としての責任がある。生きているだけで自分自身は作品だし、そこからアイデンティティは生まれる。 自身の言動からにじみ出て勝手にできていくもので、そこに任意で手を加えてあげればいいんだと思う。 

時間をかけて見つけた自己、価値観を、ちょっとでも大事にして優先してやれたら、いつもより自分に優しくなれると思うし、そうして、柔らかく強く生きたい。