230610

https://www.nicovideo.jp/watch/sm16737085

マクドナルドで買えたらしいピカチュウぬいぐるみ(かわいい)

ぬいぐるみの毛なみがアクリル繊維らしいキラキラ感があり、顔に凹凸が少なくて丸っこくてほんとにかわいい。

ピカチュウは喋るし、ヒトカゲは光るし、ゴマゾウヨーギラスはブルブルするらしい。

2001年のマックって、480円でデカぬいぐるみが買えるんだ。いいなぁ。(もちろん物価感覚が現在とは若干違うだろうけど、マックで縫いぐるみ買えるのエンタメ感があって良い)

https://twitter.com/ponzunomuka?s=20

↑このピカチュウのことだけを追い続けてるアカウントがある ところどころインターネットに慣れてない感じがしてほんのりかわいい

 

 

昔、親戚の家にこのピカチュウがいた。記憶ないくらい昔、私が2歳か3歳くらいの頃。親戚の家に行った私は初めてこのピカチュウと出会うわけなんだけど...。

何を思ったのか、私たち家族が帰るとき、私は、このピカチュウを冷凍庫に入れて帰ったらしい。入れた記憶はもちろんない。多分、ピカチュウと別れるのが寂しくて、最後に何か抗いたかった結果なんだろうな、でも冷凍庫からヒンヤリしたピカチュウ出てくるのまじで怖いと思う。怖い。

私たち家族が家に着いて親戚に連絡したときに「ピカチュウが冷凍庫に入ってたよ!」ってことを知らされた。そのピカチュウ、冷蔵庫に入れたせいか、喋らなくなっちゃったらしい。体内の機械に良くなかったらしい。

そんなことある?とは思ったけど、そんなこともあるか。

 

数年後。私がピカチュウを冷凍庫に入れてから5年くらい経って、親戚の家に行く機会があった。ピカチュウに再会するとたしかに喋らなくなっていて、無い罪の重さを感じた。(冷凍庫入れた記憶も、ピカチュウがしゃべってた時の記憶もないので)

ただのぬいぐるみになってしまったピカチュウは、お腹の中に喋るための機械が入っているから普通のぬいぐるみよりも重みがあり、罪の重さを一層感じさせるようだった。気にしてるうちに愛着がわいてしまい親戚の家にいる間ずっとさわっていた。

ふとお父さんが、「中の機械取り出せれば、直せると思うんだけどな~」と言った。ぬいぐるみ撫でてる私の前で機械の話するのはメタが強いなと思うけど、するとお母さんが、「それなら全然、縫い直せばいいだけだし、一回開けちゃうのはありかも」と答えた。

そういう訳で、一度家に引き取って、ピカチュウを直そう!ということになった。この時点で親戚の方は「そんな気にいったならもうあげるよ~」みたいな流れにはなってたけど、「いいや次来たときに絶対返すから」みたいな譲り合いがあったらしい。

 

家に来たピカチュウは、腹を開けられ、機械を取り出されたり、わたを入れられたりして腹を閉じられた。両親の手によって、喋れるようになって、もとの形を取り戻したピカチュウは、かわいくてかわいくて何回も喋らせたらしい。

 

何年かしてまた親戚の家に行き、喋るピカチュウをお披露目した。向こうは喜んでくれたが「治って良かったね~」の言葉は多分私に向けられた意味合いが強かったように思う。ピカチュウは今でも親戚の家にいる。

 

 

ピカチュウを返したのは、私が小学校何年生だっけくらいのことだった。この一連の話、全部記憶がなくて、親から聞いた話だけで成り立ってるからあまり詳しい話ができない。

私の手元には記憶もないし、ピカチュウもない。無念。

親戚の家に行くと毎回この話されるから、そのたびに、(事実なんだな~、ほんとうにあった出来事なんだな~)って思う。もちろん、両親も知ってる話だからたまにこの話がされる。

どこにも証拠が残ってない出来事で、ピカチュウの写真すらないけど、人の記憶だけで成り立っていて、本当に尊いと思っている。たまに思い返しては面白いな~って思うし、何か、心温まるような、ハートウォーミングな感じがする。

 

p.s. 実際に起きていた出来事が、言葉だけで存在をあらわにしていくのが本当に嬉しいなぁって話

230504

音楽ホールのバイトのことを、仕事じゃなくて趣味だと思ってる節がある  

好きなものをなかなか仕事だとは思えないし思いたくないかも

 

客席を眺めてるときが一番楽しい 客席の照明が一つ一つ段階をふんで消えていく 

陽が落ちて夜になっていくさまを早回しで見ているみたいだ 明るかった空がぎゅーんとまわって落ちついて心穏やかに守られるような 活気ある時間を抑え込んで、黙らないといけない雰囲気に変わるみたいな感じだ

開場中あわただしかった場内が静かに暗くなる 周りの客もはっきりと見えなくなり、すべてが暗がりに消えていく 自分自身と、かすかに照らされた壇上だけが存在する空間 自分は“観客”を形成する概念の一部になり、他の観客と溶け合い形を無くしている

 

客席に座って観ているときは、取り繕いのない自分で居られる 肉体の持つ悩み(生老病死)とか、嫌な感情(怒りとか憎しみ)を忘れて、楽しいことだけ考えられる

映画館で眠くなるのってそういうことなのかな、辺りが暗くて気持ちが落ち着くから

 

このバイトって、時間を提供する側の、小さいひとピースの役割をしてるんだなって思う 深いことはわからないけど、誰かにとって大事な出来事の一かけらになれるのは素直に嬉しい

 

親からは、遊びでやってると思われている 遊びでお金貰ってる人と思われている

間違っちゃないけども まあでも、親がしてる労働に比べたら、私の労働には何も辛い要素がないので当たり前の反応ではある

ちなみに、ゼミの先生からは、良いバイトやってますねと言われている。なんというか、大事にしている文化圏が近いんだろうな。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

ゼミの先生とすれ違った時に、「副専攻のゼミの方で好きなことをどんどんやっていいからね」といわれた。応援されているのか見放されているのかわからない

急に声かけられた反動で「はい!!!」ってめっちゃいい返事してしまった 正解が分からない

メインのゼミで居づらい思いをしてるのが先生にばれてる可能性がある そんな事実はないことにしたいんだけどな こう、事実を認めた瞬間に現象が浮き彫りになってしまうのが好きじゃない いろんなものを見ないふりしている 見なければないのと同じ…になってくれる気がする 認知はしてるけど“認知”はしていない 不誠実だと思ってる

声の大きい人が幸せなら、母集団もそこそこ幸せになれるかもな~って諦めがある

個人の願いを叶える場所にしては集団がでかい例が多い もっと小さい場所で叶えないといけない

 

大事にすべきものは自分で保管(補完)しないといけない  カードキーとか、価値観とか健康とか信念とか 他人は守ってくれないから自分で守る必要がある

イマジナリー培養液にいれてとっておいて、あとから塊魂みたいにぜんぶくっつけて大きい星にすれば解決

 

何時に寝付こうが睡眠はとった方が良い 睡眠は大事だから摂るの ってホリエモンも言ってた

230419

youtu.be

 

ポルノグラフィティの「ミュージック・アワー」を聞いては、「私はこれになりたいし、これにならないといけないんだ」と、希望と暗示が半々みたいな気持ちになる。

 

なんかこう、世界がもっと楽しいものであると確信していたいし、本当はきっとそうなんだけど。信じきれていない。あと一かけ何か足りなくて悪い部分にばかり目がいってる。

もっと可能性を持っているはずだったんだけど、自分で狭めてしまったんだろうな。

 

人生は楽しいものであるはずだから、そう、楽しさが伝えられる人でありたい

焦り混じりで「ミュージック・アワー」を聞いている  正気ではない  聴いてるとき、誰かにすがるような、本当に楽しい世界はあるのかって問いただす気持ちでいる

でも多分もっと楽しいと感じられる世界が仮にあって、そこに向かっていかないといけないんだとしたら、今いる現実もやりようによってはうまいこと持っていける手立てがあるはずなんだよな 気づきたい

安定の作用がある 

 

- - - - - - - - - -- - - - - - - - - -- - - - - - - - - -- - - - - - - - - -

最近の良かった曲

 

大女優さん / いよわ feat.花隈千冬

youtu.be

 

ポエトリーリーディング最強

 

 

レトロフューチャービーイング / 知声・足立レイ

youtu.be

過去と未来が混ざった地点にいるのが現在なんだなって

230326

音楽への接し方

 

なんか今年入ってから、音楽へのモチベがちょっと増していて。

月に一回ライブに行くようになったり、音楽ホールでバイトするようになってしまった。

 

良いのか悪いのかわからない、音楽って実利的なものではないし、直接的に良い効果が見込めるものではない。聴き手の転用次第な部分がでかすぎる。都合のいいものだけ持ち帰って後は空気に漂わせておくんですよ、あんなもん。

 

実は高校まで曲がりなりにも吹奏楽とピアノをやってて。 大学入ってからの2年くらいは全く音楽触れてなかったんだけど、いろいろ思い出してたら、やっぱり身近にあった方が良いかもって思った。大事だから…あんなものが…

音楽の大事さ感じたので、意識してたくさん聴くようにしたくて、そうしてる今。

 

最近は、音楽ホールでバイトしてて、レセプショニスト屋さんしてる。楽しいですよたぶん。オーケストラとかが入る大きめのホールで、お客さんを座席まで案内したり、クロークで荷物預かったりしてる。大体は表から見えていることが全てだから特に裏話とかはないな…。(接客業が不得手すぎて、思考力落ちたり微熱続いたり色々あったけど本筋と関係ないので省く)

音楽ホールって、いろんな人間が来るんだけど、高齢の人が一人で来てるケースが多い。あと、変わった人が多い。そういった、一人で生きられないのに一人の行動を選択するような人…の割合が高い。(私も全く人のこと言えたもんじゃないが。)

音楽鑑賞って、一人で完結する娯楽なんですよ。他の人とか必要なくて、音楽と自分の身一つで楽しめる。だから、そういう人間が集まりがちなんだろうなたぶん。

 

(コンサートとかライブに行くってだけでまぁ少数派な今の時代に、わざわざオーケストラ聞きに来る人って珍しい 他のポップスやロックが十分に発達している中でオーケストラとかのクラシック音楽の勢力位置ってかなり不利。わかりにくいから。

オーケストラの公演って、知識がないと十分に楽しめない気がする。最低限、楽器の名前とか演奏する曲を前もって知っておいた方が良いし、その方が楽しい。いろいろ知ってから、生で聴きたいなとか、行きたいなってから行くといい感じ。)

 

私もそうだけど、死ぬまでに残された時間の中で音楽という娯楽に時間を割くのって、なかなかの判断ミスだよな。世の中もっと娯楽はあるのに、よりによって一人で完結する娯楽を選ぶのってあまり社会的ではない。ヒト社会からは一線置いてる。だから音楽は、社会性を維持するのが苦手な人間が一時的に身を守るために必要な事象だと思うし、必要とする人は確実にいるんだな。

社会から逃げたくなったときや、一人になりたい人間におすすめできますね。音楽鑑賞。

万人が好きな曲に会えることを願ってます。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

そう、ここ3か月、連続して月に一回だけライブに行くってのをしてた。好きなアーティストにお金落としたくて。それの備忘録。読まなくてもよい。

・1月 ピノキオピーのライブ

感染症の規制が緩まって、声出しがokになった直後、多分次の日とかだった。ソワソワした感じと高揚感が入り混じっていて、羽目を外す前の雰囲気があった、実際、ライブの熱気で貧血かなんかで倒れた人がいて中止になったな。それも込みでいい思い出です。

満員のライブハウスはほぼサウナ状態だから、みんなは水分補給をするんだよ。

 

・2月 タラチオのライブ

中学のときにはまってた歌い手のワンマンが4年ぶりにあるらしいと聞いて。それは行くしかないなと思った所存…。

アーティストに対しての信仰心が強いファンが多かった印象。ゆるいWall of deathとかした。

 

・3月 きくおのライブ

隣の人が、「清水もつカレーのうた」でだけめっちゃノッててウケた。流れてよかったね。 VJが、こう、暴れつつも大衆的な感じがすごく好きだった。

ライブ全編のアーカイブYouTubeにあるのでおすすめです。

➥ きくおワンマンライブ "Kikuoland" 生配信 - YouTube

 

ライブで流れる曲ってだいたいネットでも聞けるから、出向く理由を語るのって難しいな。でもこう、作曲した人間が目の前にいるのってお互いにラヴを感じられる経験になって、相手も人間だってことを思い出せるから優しくなれる気がする。あと、デカいスピーカーで好きな曲聞けるのが楽しい。デカい花火を近くで見た時みたいな、波動を全身で受け止められて楽しいです。

 

でも、わざわざライブに行かなくてもいい世界になって良かったと思ってる。聴くデバイスの選択権はこっちにあるべきだし、様々な理由で行けない人ももちろんいるから、そういう、不利な人にもアクセス権があるのは優しいことだと思う。

 

ネットでも聞けるようになった最大の利点が、ヘッドフォンやイヤホンで、こう、自分一人で籠って聴ける環境が作れることだと思っていて。

耳元で流れてる曲と自分だけの空間の中で、静かに向き合うんだ、大事な何かと。そういう瞬間って大事だよ…、自分の大事にしたいものを確実に大事にする行動は人生に必要だから。

そう、本とかもそうだけど、文化は一人で楽しめることが利点であり欠点だからね。

孤独が来ても、音楽と対話するんだよきっと

 

PS   バイトで、開演に遅れてくるお客さんが多いと、「間に合うように来い!!!(演奏中はホールに入れないからホワイエで待たせることになる)」って思うけど、自分がライブ行くとき、開演に間に合ったことない。時間にゆるゆるすぎて。怠惰

230121

「恐怖」の原体験

小2の夏休みのとき。夏休みの間の数日だけ小学校のプールが開放されて、決められた時間の中なら自由に遊びに行って泳げるようになっていた。

おそらく、夏休み中に学校から意識が離れすぎないようにとか、たまには運動をしようとか、そういう目論見のもとで行われたのだと思う。小学生の夏休みはみんな暇をもてあましているのか、それなりの人数が集まる。私も例に漏れず、行かない理由もなかったので水泳道具一式だけ持って学校に行った。

学校に着くと、お互い数週間ぶりに合うとかでちょっと盛り上がっていたと思う。ひとしきり話すと、みんなさっさと水着に着替えて、プールに入っていった。

 

プールサイドではPTAの人が見守っていて、私たちは好きに泳いでいた。

端から端まで泳いでいてもいいし、水に入っておしゃべりしてるだけとかでも全然いい、本当に制限のない時間だった。確か2時間くらい設けられていたと思う。

ただ、自由な時間が2時間あると長く感じられるもので、いくら泳いでも全く時計が進まなくて、早くも泳ぐのに飽きてしまった。

 

時間をつぶすために、水泳の授業の演習でやった、水に沈む遊びを何度もしていた。多分水に慣れる演習の遊びだったと思う。まず体を丸めて水の中に潜り、息を吐き肺の中の空気を出す、そうすると体内の空気が無くなって浮けなくなり、体が沈んでいく。目の前に一面真っ青の床が見え、ちらほらと人の足も見えた。身体が沈んでいき、プールの床と近くなり、目の前は床だけになった。呼吸の限界がきて水面に顔を出し息をする。何度か繰り返して、時計を見た。時計の針は全く進んでいなかった。おかしい、自分はこんなに頭使って時間をつぶそうとしているのに時間が進んでいないらしかった。

もしかして時間が止まってしまったのかもしれないと考えた。だが、みんなは泳ぎ回っているし、プールの水面はゆらゆら揺れているし、人の話し声もする。自分以外のみんなが動き回っていて、自分だけが立ち尽くしていた。

周りに確かに人がいるが自分とは時間の流れが違う場所にいるのではないか。自分だけが止まった時間の中にいて、どっかからか切り取られてたまたまプールに配置されたような、別のチャンネルに置かれたように感じた。

 

このまま時間が進まなくなるとプールから出られない。永遠をここで過ごさないといけないのかもしれない。そんな。ずっとプールの中にいるわけにはいかない、自分にはプール以外の居場所があるし、プールの中では泳ぐことしかできない。このままでは、一生プールの囲いから出られないどころか、プールの水の中に閉じ込められるのではないか。まるで水槽に閉じ込められている魚になったみたいな苦しさが迫ってきた。さっきまで水に沈んで遊んでいたときの呼吸の苦しさが思い出された。水の中にいると苦しくなる。ここにはいられない、こわい。気持ちが苦しくなって、逃げようと思った。プールの水が身体にまとわりついていることがだめなんだ、そう思い、いそいでプールサイドにあがった。

見守りのしているPTAの人に声を掛け、「家に帰りたい」と言った。突拍子もないのはわかっていたが、自分が小2で、大人から見れば幼稚に見えるだろうという認識の上、その幼稚性をフルに使った行動に出ることにした。ホームシックにでもなって家に帰りたくなった幼い子の振りでもすれば帰してもらえるだろうと思った。複数人の大人から「体調が悪いのか」とかたくさん聞かれた。違う、プールにいられなくなったのだ、でもどう説明したらいいのか小2の頭ではわからなかった。ただとにかくプールにいることがとてつもなく恐怖だった。水の中はおろかプールサイドにいることも苦痛だった。PTAというドアを開けないと外に出られず閉じ込められているような気がして、とても苦しかった。プールという空間、時間に閉じ込められて、存在が確かでなくなっていく気がした。

 

その後もPTAの人とうだつの上がらない問答を続けていた。やがて、PTAの大人たちから見て私は「この子は寂しくなっちゃったのかな」みたいな認識に落ち着いたらしく、学校の電話でお母さんに電話することになった。自分はそんなこと望んでないし、せっかくプールから上がったのだから早く家に帰してほしかったが、周りが電話していいよって受話器を渡してきたので、よくわからずに家にいるお母さんと話し始めた。自分でも何を言ったか覚えてないし、お母さんの方も全く内容がつかめていないようだった。私が状況を分かってなくてPTAの人もわかってないのだから、第三者のお母さんに伝わるはずがない。

そんなこんなで、誰もろくに状況を理解できないまま時間が経ち、プールの自由時間が終わるころになった。PTAの人から「そろそろみんなも上がってくるから、みんなと帰りな」と言われ、そこで「あぁ、時間は止まってなかったんだな」と確認できた気がした。

 

プールが恐怖に感じられたのはこの日だけで、その後は問題なく泳げたし、何事もなく水泳の時間を過ごしていた。なぜか再現性がなくて、プールであの時のような恐怖を感じたことは二度と無かった。

ただこの経験のせいで「恐怖」のイメージといえば「プール」で固定されてしまった。「死」や「別れ」といった普遍的な「恐怖」と、「プール」の息苦しさがリンクして、目次みたいな役割になってる。「恐怖」を感じてるときは、息が苦しいし、状況が飲み込めないし、周りから理解されない気がする。でも、これは私の「恐怖」だから、きっと人それぞれの感じ方があるんだろうな。

みんなは何が怖いんだろうな、そう思いながらツイッターで「こわい」でパブサして遊んだりする。

 

P.S. このあと数年くらい、PTAの人に会うたび「プールで寂しくなっちゃった子だよね」といわれるようになり、「そうじゃないんだよなぁ」って気持ちと、「人前でそういう子どもを馬鹿にするようなこと言うのってどうなの」って気持ちにされる。一回休み。

死と自分の距離

大きな買い物をすること。友達と遊ぶ約束をすること。ご飯を食べること。寝ること。今だけじゃない、明日からの未来も生きている前提で、生きていくために必要な行動。

ふと(もしも今この瞬間この世からいなくなったら、この行動する必要ってないんだなぁ)と思う。自分の時間が現在で止まってしまえば未来のための行動をしなくていいし、いろんなことを考える必要がなくなる。

自分の中で「死」は、経験したことがないからはっきりしない概念だけど、いつも自分の考えの中に存在し続けてる。距離が近い概念だ。実際、妄想の中で自分は何度も死んでる。希死念慮とかではなく、単純に「もしも」の話として自分で自分を手に掛ける。階段とか、夜道、電車、エレベーター、部屋の中。いろんなところで自分が死ぬ妄想をしている、意味はないのに。

死ぬことで嫌なことから逃げたい思いと、死ぬのは怖いなって思いの二つがずっとせめぎあってる。いつになったら終わるんだろう、いつ、死のことを考えなくて済むのだろう。死ぬことで現世から逃げようとするのもやめたいし、死ぬことに恐怖することもやめたい。けど全く終わらない、ずっと、死ぬことが行動の選択肢の一つとして存在し続けている一方で、死んで肉体も魂も無くなるのが怖いのが続く。

生きてるのが辛いからって死に逃げるのは健康的ではないんだよな、わかってるんだけどな。でも、何も起きなくたって、ここにいるだけで嫌なことだってあるし、生が存在してるだけで嫌なときがある。

年々、生きている中で起きるイベントの大半が辛く思える。世界が自分のような人間のためには存在してないな、と感じてから全て難しく見えてしまった。もっとまともな人間にしか世界は生きていけないのかもしれない。疲れる。死のことを今より考えなくて済むようになりたい。